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『四季』自主公演 [日録]

 川口第九を歌う会の4年ぶりの自主公演、ハイドン『四季』公演が終わりました。第九を歌う会なのになぜハイドンのオラトリオを演奏しているのか、なぜ4年ぶりになったのか、などの事情は前に書いたので省略します。
 自主公演としては、これまでレクイエムやミサ曲などを中心に扱ってきました。メンデルスゾーンのオラトリオ『エリヤ』『パウロ』、それからヘンデル『メサイア』を上演したこともありますが、いずれも宗教的な題材の作品で、世俗ネタのものははじめてだったかもしれません。
 まあオラトリオというのは、もともと宗教的な題材を扱うのが普通であって、ハイドンの前作である『天地創造』も聖書ネタです。もしかすると『四季』こそ、世俗ネタではじめての、劃期的なオラトリオであったのかもしれません。もっとも、いちばん最後はやっぱり「アーメン」で終わりますが。
 オラトリオは、独唱・合唱とオーケストラを駆使した、劇的な内容の音楽であって、「演技の無いオペラ」などと呼ばれることもあります。演奏時間もかなり長いものが多くなっています。
 私の『星空のレジェンド』も、こんどオーケストラ版になったので、オラトリオのはしくれと言って良さそうですが、演奏時間はせいぜい1時間ちょっと。『四季』ははるかに巨大な、3時間近くかかる大作です。
 今日も、開演時間は15時でしたが、終演は18時近くなっていました。途中20分の休憩があり、何曲かカットした上でそんなものです。川口第九を歌う会の自主公演としては、いままででもっとも長いものになったと思います。
 合唱の負担が非常に大きいので、当初はいくつか合唱曲をカットしようという話になっていたはずなのですが、いざ蓋を開けてみると、カットされたのはすべて独唱部分でした。合唱はフルコーラスということになったわけです。1曲1曲がかなり長く、なかなからちがあきませんでした。なんだか練習の段階では、やってもやっても終わらないような気さえしたものでした。いちおう全曲の音とりが済んでも、全貌が見えない感じで、どういう場面なのか、その場面が全体の中でどういう位置づけになっているのかを把握するのが容易でない状態が続きました。
 私は月1回程度練習ピアニストとして行っている程度だったので、余計そう思ったのかもしれません。私が全体構造を認識できたのは、字幕制作をはじめてからのことです。

 川口第九を歌う会では、メンデルスゾーンの『エリヤ』をやったときに、はじめて字幕をつけたのだったと記憶しています。その前に『メサイア』をやっていましたが、そのときは字幕をつけるという話は起こらなかったようです。確か私が、板橋オペラで字幕をつけた経験から、川口でも提案したのだったと思います。
 パワーポイントで作った字幕を、プロジェクターで吊り板に映写するだけの、板橋で使った簡単なものをイメージしていたら、ちゃんとした業者に依頼し、けっこうな料金を支払ったというので驚きました。しかし評判は良かったのでしょう、そののち川口でも字幕をつけることが増えました。
 ミサ曲のような定型文ならともかく、オラトリオとあっては、リアルタイムで意味がわからないとあまり面白くないでしょう。昔は、プログラムにオペラやオラトリオの歌詞を全部載せておくということもよくおこなわれていましたが、客席照明では暗くて読みにくいこともありますし、現在歌われているのが歌詞カードのどこにあたるのか、ずっとフォローしてゆくのはなかなか骨が折れます。
 字幕ばかり読んでしまって演奏者をあんまり見なくなるというデメリットはありますが、やはり好評だったのもむべなるかなと言うべきでしょう。
 『パウロ』のときももちろん字幕つきでしたし、別に字幕が要らなさそうなブラームス『ドイツ・レクイエム』、さらにヴェルディのレクイエムのときまで字幕をつけました。
 字幕制作は毎回私が担当しています。
 最初に『エリヤ』をやったときに、業者の人から書式を教わりました。いちどに表示できるのは2行で、1行16文字だということ。板橋のパワポ字幕では、かなりの字数を表示できたので、ずいぶん少なく思えました。しかも2行めは1字下げるのが暗黙の諒解だとか。同じ高さから行をはじめると読みづらいのだそうです。
 つまり31文字しか表示できないわけです。で、1秒間に普通の知能の人間が読み取れる日本文は8文字くらいとされています。「小説家になろう」などでも、そのくらいの計算で「読了時間」を設定しているようです。つまり、字幕は4秒以下で切り替えてしまうと、何が書いてあったのかわからないということになるわけです。ゆったりとした4拍子で1小節が4秒程度です。外国語のレチタティーヴォなどでは、逐語訳しているとこれではとても間に合わない言語量である場合がしばしば出てきます。
 また、31文字と言っても、たとえばこんな書きかたの字幕が続くと非常に読みにくくなります。

  1秒間に普通の知能の人間が読み
   れる日本文は8文字くらい

 行が変わるところは、なるべく語の途中にしないほうが良いのでした。
 つまり外国語の曲の字幕を作るにあたっては、歌詞はできめるだけ大意をつかむだけにして意訳し、なおかつ訳文は16+15文字で読み取りやすい言葉にしなければなりません。
 そこまではいままでもやっていたところです。しかし、今回のような世俗オラトリオの場合は、歌い手にそれぞれ役がついています。いや、宗教的オラトリオでも役はついているのですが、それぞれの役の個性はさほど屹立していません。『四季』の場合の、実直な農民ジモン、その娘であるハンネ、そのまた恋人であるルカス、といったような明確な「キャラクター」を持っているわけではないのでした。
 キャラクターを描き分けるために、一人称や口調などもそれぞれ変えることにすると、文字数なぞはたちまち増えてしまいます。たとえば「私」と1文字で済むところを、「わし」とすれば2文字、「あたし」とすれば3文字必要になります。「~だ」と結ぶところを、「~だわ」とすれば1文字、「~なのよ」とすれば2文字増えます。
 さらにドイツ語の面倒くささを今回は大いに味わいました。どうもドイツ語というのは名詞依存構文の言葉であるようで、貰った対訳を見ると、「こんな日本語は無いだろう」というような変な主語を持った箇所がしょっちゅう出てきます。そういう名詞依存構文の主語というのは、たいていの場合漢語になりますが、これが登場人物のキャラクターとはどうしても合わないのです。登場人物は、合唱の役柄を含めてみんな農民であって、

 ──こんな七面倒くさいことばかり言う百姓が居てたまるか!

 と言いたくなるようなセリフが目白押しなのでした。
 そこで堅苦しい漢語を柔らかく言い換えようと思えば、これまた文字数が増える一方です。
 増える一方の文字数を、なんとか切り詰めて31文字に押し込めるというのが、今回の私の苦心のしどころでした。

 とはいえ、前にも書きましたが、私はこういう作業が嫌いではありません。
 枠に合った形での言い換えなどを考えるのも好きだし、口調を工夫するのもわりに得意です。こういうことの苦心であればむしろ愉しめます。
 これも前に書いた『ラ・ボエーム』のときのように、悪ノリし過ぎて怒られた経験もありますが、今回は口調の描き分けがたいへん好評だったようです。出演者からは字幕が見えないので感想は貰えませんが、運営の一員で今日は舞台に乗っていなかったNさんが撮影係をしており、当然最初から最後まで字幕を見ていました。
 「いや~、あの、口調をそれぞれ違えてあるところ、わかりやすくてすごく良かったですね」
 と終演後に言われたので、ちょっと得意面になりかけました。
 また、字幕データの一部を見せた出演者からは、
 「これ、事前に見ておきたかったですね」
 と言われました。そういえばそのとおりで、あらかじめ配布しておけば良かったと反省しました。合唱団員には対訳は渡されているものの、上に書いたように対訳は日本語としてよくわからないようなところもあります。字幕データのほうが、直感的に意味を汲み取りやすかったのではないかと思います。ただまあ、正指揮者の高橋誠也先生がそれを善しとするかはわかりませんが。
 私は今日の本番当日は、字幕のキュー出しという仕事に就いていました。字幕は大きな電光掲示板ふたつに表示されます。それを業者の担当者がパソコンで操作するわけですが、私は楽譜につけておいた字幕ナンバーにもとづき、パソコンを操作している担当者に合図を出します。私が合図すると、担当者がエンターキーを押して表示するという仕組みです。合図とキー押しはほぼノータイムで可能なのですが、わずかながら表示までにタイムラグもあり、実際のほんの少し前にキューを出すよう指示されました。
 1拍前、などのように決められていれば、楽譜が読める人なら誰でもできそうですが、実際には曲のテンポによってタイミングが変わります。半拍前で充分なこともあり、あるいは附点四分音符くらい余裕を見なくてはならないケースもあります。こういう、咄嗟に下さなければならない判断は、やはり私くらいは「わかって」いないと難しいのではないかと思います。客席で聴いていた知人から、字幕のタイミングが完璧にドンピシャであったと褒められて、これまた少々鼻が高くなりました。
 本当は舞台で歌いたかったのじゃないか、と出演者から勘繰られましたが、そうでもありません。『四季』の合唱ほどに厖大なドイツ語を歌いきるのはさすがに骨が折れます。今回に関しては、裏方で充分であったと思っています。ただ、プログラムに「字幕制作」をクレジットしてくれればなあ、とは感じました。そういえば川口第九を歌う会の演奏会プログラムには、いつも舞台上に乗る人の名前しか出ておらず、字幕云々に限らずスタッフ名が載っていることが少ないのは、いささか片手落ちである気もします。こんど運営に進言してみようかと思います。

 「第九」公演では外部から指揮者と独唱者、そしてオーケストラを呼ぶのが普通になっていますが、自主公演では内部で賄うのがならいです。今回も、指揮は高橋誠也先生、オーケストラは高橋先生が指導しているアンサンブル・フォウ・ユウ(弁護士さんたちの結成したオーケストラらしい)、独唱者はジモンが酒井崇くん、ハンネが藤井あや、ルカスが吉田秀文くんでした。キャラクターのイメージとしては酒井くんと吉田くんは逆な気がするのですが、ジモンがバリトン、ルカスがテノールの役なのでやむを得ません。
 それにしても、ハイドンというのは「もっとも古典派的な作曲家」であり、和声などもシンプルであるがゆえにかえって粗が目立ちやすく、しっかり仕上げるのは実は容易ではありません。オーケストラもアマチュアなので、最初の合わせのときなどはかなりヤバかった、と聞きました。今日も、ゲネプロ(総合稽古)とされていたものが全然ゲネプロにならず、ちょくちょく音楽を止めながら、オーケストラ・合唱ともどもに指揮者からダメを出されながらの稽古になっていました。もちろん時間オーバーで、当日の本番前に皆さんだいぶ疲れたのではないかと思われます。
 コロナ禍による練習中断を何度もはさみながら4年間、しかしまあ、よく本番に漕ぎつけたものではあります。高橋先生はもちろんのこと、運営の人たちなども感無量だったのではないでしょうか。
 このあと12月に「第九」公演がありますが、それから会場のリリアホールが、かなり長い改装工事に入ります。リリアもすでに建造以来30年以上経っており、リニューアルの必要があるのもわかりますが、2年くらい使えなくなるらしいので、川口第九を歌う会の活動をどうするか、目下あれこれと検討中であるようです。当然ながら、2年後の自主公演というのもメドが立ちません。ここへ来て、大きな岐路を迎えたようでもあります。2年のあいだ、団を維持するモチベーションが保つかどうか。コロナ禍で活動できなかったのとはまた違う難しさがありそうです。

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