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「特急」を考える [趣味]

 準急快速を考えたのち、前は快速急行などの種別について考えてみたのですが、今回はむしろ、「特急」について考えてみたいと思います。と言っても運行状況を網羅するということではなく、最近の「特急」の不甲斐なさを慨嘆するという内容になりそうですが。
 特急がはじめてお目見えしたのは、よく知られているように日露戦争後です。ロシアに勝利して一等国の仲間入りをした日本が、国の威信をかけて豪華列車を作り上げたのでした。これは南満洲鉄道シベリア鉄道を経てヨーロッパへとつながる大陸横断鉄道のファーストランナーとしても位置付けられていました。運転区間は東京(当初は新橋)~下関、下関からは豪華客船で釜山へと渡り、そこからまた豪華列車に乗り換えて満洲、シベリアへと走ります。
 一等車と二等車だけで編成され、一流ホテル並みの西洋料理を供する食堂車や、サロンカーなども連結していました。乗客の用向きについては、列車ボーイたちがきめ細かくサービスしました。庶民には手の届かない、まさしく上級国民や海外の賓客たちのための列車でした。ただの急行でなく、「特別急行」の名が冠されたのも当然だったでしょう。
 下りが第一列車、上りが第二列車として有名になりましたが、そのうち「富士」という愛称がつけられました。これが日本最初の特急です。

 これに対し、同じく東京~下関間を走る「三等特別急行」がやがて設定されました。その名のとおり、三等車のみの編成による特急列車です。庶民向け……と言いたいところですが、当時の特急料金は非常に高額で、われわれの考える庶民の手が届く存在ではありませんでした。実業家や中級以下の官僚などがよく使ったのではないかと思います。この下り第三列車・上り第四列車には、のちに「櫻」という愛称がつけられました。三等ながら寝台車も装備され、洋食主体の「富士」の食堂車に対してこちらは和食中心の食堂車が連結されました。あとになって二等車も連結するようになり、「二三等列車」となりました。これがふたつめの特急です。
 私鉄でも真似をして特急電車などが走りはじめましたが、国鉄の3番めの特急は「燕」です。運転区間を東京~大阪に絞り、車輛数も減らして軽量化を図り、流線形の機関車を導入したりしました。御殿場附近の山越えでは、急坂を上り下りするために補助機関車をつけなければなりませんでしたが、「燕」は走行しながらの解放という離れ業を見せ、とにかくスピードアップに特化した特急となりました。
 努力の甲斐あって、「富士」「櫻」が東京~大阪間を約10時間で走行していたのに対し、「燕」は所用時間を実に8時間に縮めました。この8時間という所要時間は、昭和30年代に東海道線が全面電化されるまでは破られることなく、東京~大阪の最速移動時間と見なされていました。「燕」はこの高速運転により、特急を超えた特急、「超特急」と呼ばれるようになりました。実は「富士」「櫻」という愛称名を公募したときに2位に入っていたのが「燕」だったのですが、国鉄はスピード特化のこの列車に命名するため、この名前を保留していたのだそうです。
 「燕」は大人気となり、間もなくセクショントレインが走り出しました。「不定期燕」と名付けられましたが、利用客は多く、ほぼ定期運転になっていたと言います。そしてそれだけでも足りなくなり、姉妹列車「鴎」が投入されたのです。「鴎」は「燕」より20分ほど時間が余計にかかったようですが、それでも「富士」「櫻」に較べればずいぶん速く、やはり超特急の仲間として認識されたようです。
 戦前の国鉄の特急は、この5本だけでした。私鉄にも特急や超特急が走り、南満洲鉄道では「あじあ」などの特急も何本も走っていましたが、とりあえず内地ではこんなところです。いずれも東海道・山陽線を走る列車で、ほかの地方にはまだ特急は走っていません。

 戦後の国鉄は、戦災からの復旧や、輸送力確保が急務で、なかなか特急どころではありませんでしたが、昭和24年に至って、東京~大阪間に初の特急が走りはじめます。「へいわ」と名付けられましたが、翌年にはあの懐かしい「つばめ」に改称されました。なお戦前の超特急は漢字の「燕」、戦後はひらがなの「つばめ」です。戦前の国鉄のスター的存在であった「つばめ」の復活は、人々を元気づけたに違いありません。プロ野球のスワローズも「つばめ」にちなんで命名されたもので、当初は「国鉄スワローズ」でした。いまでも鉄ちゃんはヤクルトファンが多いと言われます。
 「つばめ」は始発駅の発車が朝で使いづらいという意見があったのか、じきに昼の発車である「はと」も走りはじめました。これから昭和33年「こだま」が登場するまで、「つばめ」と「はと」のコンビは東海道線のヌシのような存在でした。
 昭和28年には、山陽線特急「かもめ」がお目見えします。運転区間は異なるものの、これも戦前の名車「鴎」の再来として歓迎されました。ただし一等車は連結されませんでした。
 昭和31年に、寝台特急「あさかぜ」が登場しました。東京~博多間の運転で、関西圏での利用を完全に度外視した列車であり、国鉄上層部もこわごわという感じの投入だったようですが、案に相違して毎日大盛況、「走るホテル」と呼ばれて、指定券はプラチナチケットと化したのでした。九州寝台特急はこのあと次々と登場することになります。
 電車特急「こだま」の登場した昭和33年は、ほかにも劃期的な列車が現れました。はじめて東海道・山陽・鹿児島線以外の線区に特急が出現したのです。東北本線の特急「はつかり」です。上野青森間の運転で、最初は常磐線経由でした。何かと近代化の後回しにされていたかのような東北地方に、他地方に先んじて特急が投入されたので、感激した人も多かったことでしょう。
 「はつかり」は2年後に、全国初のディーゼル特急としてリニューアルします。もっとも最初は初期故障が相次ぎ、エンジンから出火することもあって、「火を吹く特急」「『はつかり』ならぬ『がっかり』」などと揶揄されました。しかし「はつかり」は東北本線の頂点として、東北新幹線の開通まで君臨したのでした。

 このあたりからは特急もどんどん増えます。扱いやすい電車やディーゼルカーによって、全国津々浦々に走るようになりました。私が物心つく頃には、特急が走っていない幹線は、千葉県内と四国くらいなものだったように記憶しています。
 とはいえ、昭和39年東海道新幹線の開業によって、東海道線にやたらと叢生していた電車特急が一挙に無くなってはいました。東海道線の特急はほぼ夜行だけになっていたのです。
 北海道では、この時代は函館から各方面へ向かう特急がたくさん走っていました。釧路発着の「おおぞら」網走発着の「おおとり」函館本線(山線)経由の旭川発着「北海」などが主力選手でした。現在の「北斗」に相当する札幌発着の「エルム」もありましたが、このくらいの運転区間ではむしろ短距離という印象があったものです。
 ほかの地方でも、各線区にそれぞれ象徴的な特急が走っていました。東北本線には「はつかり」のほか、盛岡発着の「やまびこ」仙台発着の「ひばり」が走りました。常磐線まわりでは青森発着の「みちのく」、仙台発着の「ひたち」がありました。奥羽本線には「つばさ」が、羽越本線には「いなほ」が走ります。「つばさ」は上野から、福島経由で奥羽本線に入って山形などへ、「いなほ」は上野から新潟まわりで秋田まで行っていました。磐越西線「あいづ」もその頃すでにあったと思いますが、ずいぶん短い距離に特急を走らせるものだと思ったりしました。
 上越線では「とき」信越線では「あさま」中央線「あずさ」「しなの」北陸線「雷鳥」などが、それぞれの線区を代表する特急として走りました。また大阪~青森の日本海側を一気に駆け抜ける「白鳥」も印象深い列車です。
 紀勢線「くろしお」山陰線「まつかぜ」鹿児島線「有明」長崎線「みどり」日豊線「にちりん」なども忘れられません。
 これらの特急は、現在のように何往復もしているものは少なく、便数ははるかに少なかったとはいえ、その存在感は非常に強く、「この線といえばこの列車!」と明言できるような存在でした。運転距離も長く、始発駅から終着駅まで4時間程度では短いと感じられたほどです。

 それがだんだん変わってきたのは、エル特急の登場あたりからでしょう。
 だいたい同じ区間を走る特急が何往復も設定されるようになり、それまでは全車指定席があたりまえだった特急に自由席車輛が連結されはじめました。上に名前を挙げた特急はほとんどがエル特急化しました。北海道の「おおぞら」「おおとり」「北海」などはそのままでしたが、札幌~旭川間という、その当時としては短すぎる区間にエル特急「いしかり」が登場し、たちまち増殖しました。あとエル特急化を免れたのは「みちのく」「白鳥」「まつかぜ」くらいではなかったでしょうか。
 エル特急の増加は、同じ区間を走っている急行列車の削減にもつながりました。つまり、急行の格上げという名目での、国鉄の増収策です。昭和40年代あたりから、国鉄の赤字はぐんぐんとふくらみ、社会問題にすらなりつつありました。
 急行を特急に格上げして、特急料金をとることになったわけですが、その分車輛などがグレードアップするのは良いのですけれども、それまでの急行の役割を特急が果たさなければならなくなった関係上、停車駅がむやみと増えはじめました。「こんな駅に特急が停まるの?」というところがどんどん増えた結果、特急の「格」が目に見えて下がってきたのを感じました。
 もう、なんら「特別な急行」ではなくなった印象です。特急とは特別急行の略ではなく、単に「トッキュー」という名の何か、という感じになってきました。英訳はいまでもLimited Expressですが、Limited(限定された、選び抜かれた)という形容詞がふさわしい存在とはとても思えません。実際、「○○エクスプレス」とだけ名付けられた「特急」は多く、JR自身がもう「エクスプレス=特急」と解しているとしか思えないのでした。
 急行は減り続け、急行並み、むしろかつての準急並みの特急がひたすらに増えました。やがてついに、「はまなす」を最後に定期の急行は姿を消し、普通急行が無いところに特別急行だけがあるというおかしなことになって、ますます特急の「特別」感は無くなりました。
 その特急も、長距離を走るものはどんどん削減されました。新幹線が開通したことで並行在来線から特急が無くなったのはやむを得ませんが、そうでない線区からも長距離特急は消えてゆきました。夜行特急はすでに「サンライズ(出雲・瀬戸)」を除いて全滅していますし、新幹線と無関係だった「白鳥」「まつかぜ」なども消滅して久しくなっています。いちおう「まつかぜ」の後継のつもりらしい「スーパーまつかぜ」というのはありますが、私に言わせれば「レッサーまつかぜ」とでも呼びたいところです。京都から山陰本線経由で博多まで走っていた雄大な長距離特急が、たかだか鳥取益田(一部は米子)間を走るだけの、せいぜい中距離の列車になってしまいました。後継などとは名乗って欲しくない気がします。

 私はこの前、「ひたち」で仙台まで行きましたが、いまやこれでも長いほうです。走行距離100キロ未満、全所要時間1時間未満なんて特急がいくらでもあります。そして停車駅は非常に多くなっています。2駅連続、3駅連続停車などはざらにあり、「きりしま」のごときは霧島神宮・国分・隼人・加治木の4駅連続停車が基本パターンとなっていて眼を疑いました。急行があれば、明らかにそちらに任せたほうが良いような駅が含まれています。
 「ひたち」と「ときわ」、「あずさ」と「かいじ」などのように、同じ路線を走っていて、どう見ても昔の特急と急行の役割を分担しているような組み合わせもあります。「ときわ」や「かいじ」はこの際急行にしてしまったらどうだ、と言いたくなります。「特急用車輛」を使っているから、と言うのでしょうが、もはや特急用車輛という名称自体が時代錯誤と言えます。前に乗った臨時急行は特急用車輛を使っていましたし、なんなら臨時快速でも型落ちの特急用車輛を使っていることがあります。
 「ライラック」「カムイ」に至ってはもう意味不明で、運転区間(札幌~旭川)も同じなら途中停車駅(岩見沢・美唄・砂川・滝川・深川)も同じで、愛称名を分ける必要があるとも思えません。実は使用車輛が違っているだけなのでした。「1号」「3号」といった番号も、通しでつけられています。なお美唄と砂川はかつては特急停車駅ではなく、急行のみ停まっていました。上記の停車駅に江別を加えれば、当時の急行の標準停車駅となります。
 ともあれ、特急はすでに、特別な列車という地位からは滑り落ちてしまっていると言って良いでしょう。「特別な料金」を徴収するだけの、快速と大差ない列車というのが現状です。長距離は新幹線任せで、新幹線の力の及ばないあたりだけをシコシコと走り回っている印象です。
 この凋落ぶり、なんとかならないものでしょうか。
 言っても詮無いことかもしれませんが、「特急」と名乗るからにはある程度の走行距離と走行時間が欲しいと思いますし、何よりインターシティの役割を持っていて貰いたいところです。だから中核都市から単独の観光地へ向かうだけの列車を「特急」と呼びたくはありません。それから、ホームライナー的な列車に「特急」を名乗らせるのもどうかと思います。ホームライナーの乗車整理券より特急券のほうが高いので、ある程度乗客が見込めるとなると特急に格上げたくなるのでしょうが、こういうのは特急とは別ものとして考えるべきではないでしょうか。同じ意味で、「成田エクスプレス」「はるか」などの空港シャトル列車も、たとえば「直行」といった別種別を考えたほうが良いと思います。
 なんでもかんでも特急にするのではなく、「特急とはどういう役割を持つ列車なのか」ということをしっかりと検討した上で、その基準におさまるものだけを特急と呼んで貰いたいと思うのです。これはそんなに難しいことなのでしょうか。
 JRの特急の現況に対する不満を述べるだけの稿となりました。私鉄の特急についても、また今度考えてみたいと思います。

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