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『続・TOKYO物語』の初演 [日録]

 千葉県内が大規模停電で大変なことになっていますが、今日は千葉の合唱団・磯辺女声コーラスの演奏会がありました。私の『続・TOKYO物語』の初演がおこなわれます。
 千葉のどのあたりがどうやられているのか、詳細はよく知らないのですが、とりあえずマダムの実家のあるのあたりは問題ないようです。松戸・柏・我孫子・野田などのいわゆる東葛地域は被害を受けていないのでしょう。
 報道を見ると、千葉県であるばかりか千葉市内のナントカ区が停電しているというような状態で、東葛地域を除けば、県北・県南を問わず被害を受けている場所と受けていない場所が混在しているようです。
 磯辺女声コーラスが活動拠点としている美浜区に関しては、停電地域リストには載っていないようで、実際、被害を受けたという報告は、指揮者の清水雅彦さんのところにも来なかったようです。
 いっぽう、演奏会場である千葉市文化センターのある中央区も無事でした。そんなわけで、演奏会は予定どおり開催されることになりました。全県的に混乱している中、演奏会がつつがなく開けたのは、なんだか申し訳ないようでもあり、また神様が味方してくれたようでもあります。合唱団にとってはもちろん幸運でしたが、私個人の受け止めかたとしては、神様が『続・TOKYO物語』の初演を妨げずに道を開いてくれたと考えても良さそうで、作品の幸先良い出発をことほがざるを得ません。
 実は、初演会場で楽譜の販売もやって貰えるようカワイ出版の編集者に頼んでおいたのですが、物販をするならホールの使用料金を2倍近くに上げさせて貰うと言われて断念し、むしろ幸先が悪いなあと思っていたところだったのです。
 まずは祝福された出発になったことを嬉しく思いました。

 演奏会はよくあるように4部構成で、『続・TOKYO物語』はその最終ステージとなっていました。ホールリハーサルはステージの順におこなうとのことで、最終ステージのリハーサル開始時刻は12時過ぎということになっていました。
 私は当日ピアノを弾くことになっていたので、まあ正午までに楽屋入りしていれば良いようなものでしたが、ある作業を頼まれていたので、1時間前の11時くらいには着くつもりで居ました。
 日暮里京成に乗り換えて行くつもりです。2回ばかりリハーサルに立ち会った経験から、千葉へはJRだけで行くよりも、京成に乗り換えたほうが相当安いということがわかっていました。また、会場の千葉市文化センターは、JRの千葉駅からも歩けますけれども、京成の千葉中央駅のほうがずっと近いのでした。最寄り駅は千葉都市モノレール葭川公園ですが、京葉線側から行こうとするのでない限り、モノレールの利用はあまり現実的ではありません。千葉駅で乗り換えるのだと、モノレールは一旦ぐにゃりと迂回してから向かうので、待ち時間なども勘案すると、そのあいだに徒歩で着いてしまうようなことになりかねないのでした。
 千葉中央駅ならそのような懸念はありません。京成千葉線の電車は、全便千葉中央までは行くので、千葉駅で下りずにもうひと駅乗ればそれで済みます。
 とはいえこのルートで行ったことがないので(帰ってきたことはある)、いちおう乗り換え案内をチェックしました。JRだけで(総武線で)行くのに較べると、運賃は安いものの時間は若干かかるようでしたが、徒歩時間まで考え合わせると、ほぼ大差ないようです。
 千葉中央駅に10時45分に着けるよう設定して検索すると、川口を9時26分に発てば良いらしいとわかりました。
 うちから川口駅に行って電車に乗るには、おおむね10分見ています。駅舎までは7分くらいで到達できると思いますが、そこから改札を通って階段を下りて……となると、駅の混みかたにもよりますが10分くらいは見ておかないと厳しいようです。
 ところが、出かける準備に思ったより時間がかかり、家を出たのは9時18分になっていました。かなり早足で歩き、扉の閉まる直前の電車に駆け込み乗車をしてかろうじて間に合いましたが、今日はそんなに気温も高くないのに、ここまでだけで汗びっしょりです。
 日暮里では普通電車を1本見送ってから快速に乗りましたが、京浜東北線の電車を1本送らせてその快速に乗れたかどうか、微妙なところです。
 そういえば京成の快速に乗るのははじめてです。そんなにレアな便ではないのですが、どういうわけか乗る機会に恵まれず、いつも特急に乗ってしまいます。かつての急行よりいくぶん停車駅を絞っており、京成津田沼までだと、特急より4駅余計に停まるに過ぎません。お花茶屋市川真間などの旧急行停車駅は通過になっています。走りっぷりもなかなかのものでした。
 私の乗った快速電車が京成津田沼駅に滑り込むのとほぼ同時に、新京成線のほうから千葉中央行きの電車が入ってきました。新京成線と京成千葉線は、ときどき直通運転をおこなっています。その電車に乗り換えなければならないので、少々焦りました。まあ、京成津田沼で少し長時間停車をおこなうのだろうとは思いましたが。
 跨線橋を渡って、千葉線のプラットフォームに下り、ひと呼吸したと思ったら扉が閉まったので狼狽しました。思わず
 「おいおい!」
 と叫ぶと、一旦閉まった扉がまた開いて、なんとか乗ることができました。私は乗り換えにそんなに手間取ったつもりはなかったのですが、車掌から死角にでもなっていたのかもしれません。
 川口駅といい京成津田沼駅といい、なんだかきわどい乗車が相次ぎましたが、なんとか予定どおりに、10時45分に千葉中央に到着しました。先日も書きましたが、京成はどうして千葉線への直通優等列車を走らせないかと思います。

 楽屋は『続・TOKYO物語』のナレーションをやってくれる吉田浩二さん、それから第3ステージでチェロを弾く磯野正明さんと一緒の部屋でした。吉田さんは一時期、短期間ながらChorus STの団員でもあったプロの声優です。仕事が晩になることが多く、練習に参加するのが難しくなって退団してしまいましたが、都留文科大学の卒業生でもあり、そんなことから清水さんともつながりがあったようです。『続・TOKYO物語』の譜面に附記されているナレーションの文面を見て、清水さんはすぐに、吉田さんに読んで貰おうとひらめいたのだそうです。私自身はとりたててイメージはありませんでしたが、昔のニュース映画のアナウンサーみたいな雰囲気が良いかなと思っています。
 チェロが加わっているのは、第3ステージで信長貴富くんの『ひざっこぞうのうた』から2曲を歌うのですが、その歌にチェロの助奏をつけた形で、今年のおかあさんコーラス大会で演奏したとのことで、それを演奏会でも披露するというわけです。近年、おかあさんコーラス大会はなかなか普通の演奏では高評価が得られなくなっているようで、踊りまくったり衣裳に凝ったり、何かプラスアルファの目立つ点がないと上に行けないらしいのでした。それで、信長くん自身に依頼してチェロ助奏をつけて貰ったようです。
 もちろんそれだけではチェロがもったいないので、『ひざっこぞうのうた』のあとにチェロの独奏を3曲ほど入れ、さらにアンコールでも参加して貰うことになりました。
 アンコールは、『続・TOKYO物語』の最後に於かれている「見上げてごらん 夜の星を」をもういちど歌うことになり、しかも客席も一緒に歌うべく、リーフレットの歌詞カードのところに別枠で囲って歌詞が印刷されていました。このときにチェロも入れるという趣向で、こちらもチェロパートは私自身が作成しました。パート譜は渡してありましたが、今日が初合わせなので少々不安です。しかも、アンコールにだけつくチェロによる前奏の部分を、ピアノパートと一緒に印刷した譜面を、忘れて出てきてしまいました。大丈夫かな、と思いましたが、「見上げてごらん 夜の星を」はChorus STのボランティアコンサートなどでもよく歌っており、その際に私は適当に(譜面化せずに)前奏をつけたりしています。チェロに託したメロディーはその形と同一ですから、伴奏も即興でつけることができました。考えてみると、私は本番にいきなり譜面なしで弾くなんてことはちょくちょくやっているわけで、そんなに心配しなくても良かったのです。

 さて、ステージでは合唱団員がリハーサルを進めていますが、私は楽屋に落ち着いて、作業をはじめました。
 なんの作業かというと、そこに置かれていた『続・TOKYO物語』の刊行楽譜に、サインを入れるという仕事です。
 当日会場での楽譜販売はできなくなりましたが、合唱団員は全員が刊行楽譜を購入してくれて、それにサインを入れて欲しいと頼まれていたのでした。リーフレットのメンバー名簿を見ると37人居るようですが、本のほうは41冊ありました。オンステしていない仲間が他にも居るのかもしれません。
 その41冊すべてにサインを入れてゆきます。メンバー名簿を見て、名前も入れてゆきました。「崎」という字が入っている人がなぜかみんな右上の「大」のところが「立」になっている異体字であったり、「渡邊」の難しい「邊」の字を読み取るのに苦労したり、なかなか大変です。
 そのうち、自分のサインにゲシュタルト崩壊を起こしてきて、書き慣れたサインなのに間違えかけたりしました。私のサインは、ひらがなをベースにして、苗字で頭を、下の名前で胴体と足を形作って人だか鳥だかに見えるようなヘンテコなシロモノです。高校生の頃に考案して、自筆の楽譜の末尾には必ずつけたし、本にもずいぶん書いてきて、何百回、あるいは千回以上書いたと思われるのですけれども、いちどになんども書いていると

 ──あれっ、ここはこれでいいんだっけ?

 などと不安になることがあるのでした。
 宛名のほうは上にも書いたように注意していたつもりなのですが、最後近くなってついに間違えました。「尚子」という名前を見て「ナオコ」と口にし、そのまま「ナオコ」と言いながら書いたらうっかり「直」と書き始めてしまったのです。何しろ油性のサインペンで書いているので、消しゴムで修正するわけにはゆきません。一旦ぐしゃぐしゃと消しましたが、やはり貰う人の立場になってみると、これではがっかりするだろうと思い、あわてて近くのコンビニまで修正テープを買いに走りました。
 サインした楽譜は、終演後に皆さんに配られたようですが、あとで「名前まで入れてくださってありがとうございます」と何人もから言われました。サインするときに、相手の名前を入れるのはあたりまえだと思っていたのですが、案外そうでもないのでしょうか。

 13時までリハーサルをやって、14時開演なのだから忙しいものです。
 第1ステージは山中惇史さんという若手作曲家の女声合唱曲集『トヨさんの言葉』から4曲。Chorus STのすずりんが他で入っている女声合唱団でピアノを弾いているのが山中氏で、この曲集はその合唱団で初演されています。山中氏は確か藝大のピアノ科を出てから作曲科に入り直したのだったか、その逆だったか、とにかくおそろしくピアノがうまくて、この曲集もピアノがかなり超絶技巧っぽいことをしていたように記憶しています。磯辺女声の常任ピアニスト福崎由香さんが軽々と弾きこなしていたのには感心しました。
 作詩の柴田トヨさんは、産経新聞の1面にある「朝の詩(うた)というコーナーの常連投稿者で、産経を購読している私もよくお名前を見かけたことがあります。掲載された詩を集めて、100歳近くなってから処女詩集を刊行したという人です。お齢のわりに、詩の雰囲気は可愛らしいというか、ときに官能的でさえあるので驚きました。私も書店でその詩集を手に取って、作曲してみようかと思ったことがありましたが、ちょっとこの境地には私はまだ到達できないと感じて棚に戻しました。若手の山中さんがそこに挑戦したのはアッパレと言うべきでしょう。
 第2ステージは、副指揮者というべき吉田宏氏が振りました。上に名前の出た吉田浩二さんと似た名前なので混同しそうです。実際、私は出版社に『続・TOKYO物語』の初演データを上げるとき、ナレーターの名前をうっかり混同してしまいました。危ういところで最終校正に間に合い、修正できましたが、思えば危ないところでした。こちらの吉田氏は、東京理科大を出てから藝大の声楽科に入り直したという人で、合唱指揮者としてめきめき名前が知られてきているようです。
 まとまった組曲などではなく、「愛のうた」アラカルトという内容でした。といってもブラームスを歌ったわけではなく、ドラマ「表参道高校合唱部!」の中で使われて最近中高生がよく歌う山崎朋子の合唱曲でもなく、はたまた倖田來未のヒット曲のアレンジものというわけでもなく、高田三郎『心の四季』より「愛そして風」三善晃「空を走っているのは…」松下耕『愛の詩集』より「四月のうた」面川倫一『あなたへの詩』より「あほらしい唄」を、それぞれピックアップしてひとつのステージにまとめたのでした。高田先生と三善先生が20歳差、三善先生と松下さんが約30歳差、松下さんと面川さんが約20歳差というわけで、世代の違う作曲家の作品を「愛のうた」というテーマでまとめるところに吉田氏は妙味を感じたようです。
 休憩をはさみ、第3ステージは上に書いたとおり『ひざっこぞうのうた』と、磯野さんのチェロ独奏(「白鳥」フォーレシシリエンヌ、それにポッパータランテラ)でした。私はチェロ独奏がはじまるくらいまではずっと楽屋で待機していました。同室の磯野さんや吉田さんとしゃべっているのがけっこう楽しかったということもあります。

 そしてラストステージ。『続・TOKYO物語』初演です。
 無印あるいは正篇『TOKYO物語』は、空襲警報をイメージした前奏曲からはじまりますが、今度の続篇は一転して、少々野暮ったいほどに元気で明るい前奏曲を設置しました。ラジオ体操のイメージということは前にも書いたでしょうか。正篇のほうのテーマは「復興のバイタリティへのオマージュ」でしたが、続篇のテーマは「未来を信じられた時代へのオマージュ」です。
 昭和30年代は、高度経済成長期の前期であり、さまざまな社会のひずみが、まだ顕在化していない時期でした。高度成長も後期になると、私自身が生きた時代で、各種の公害問題が噴出し、人間性の阻害ということが言われるようになり、詰め込み教育の欠陥が指摘され、学校内暴力などが憂慮されるようになりました。社会の発展に疑問符がつけられたのがこの時代です。そして高度成長は、オイルショックにより唐突に終焉を迎えたのでした。
 そういう時代から30年代を見返すと、幸福な、悪く言えば脳天気な時代だったなと思われるのです。もちろんそんな時代にも、いろいろと負の面はあったに違いありませんが、それらの負の面も「将来、解消される」と誰もが信じていたのです。夢とか希望とかいうものは、「未来はいまより良くなるはずだ」という信念の上に生まれる観念なのではないでしょうか。現在は、昭和30年代とは較べものにならないほど人々が豊かになり、生活も便利になっていますが、みんなあまり幸福そうに見えないのは、「未来はいまより良くなるのだろうか? どんどん悪くなる一方なのではないか?」という懸念を抱いているからだと思います。未来がより良くなると信じられないところに、夢や希望は生まれません。
 たぶん昭和30年代は、日本人が未来に夢や希望を描けた最後の時代でしょう。あとはバブル期に、ごく短期間だけ夢のかけら、希望のかけらのようなものが復活しましたが、おおむね未来が不透明な、いまより悪くなりそうな気分のまま推移しているように見えます。
 むろん、自分が生きていなかった時の社会的コンセンサスといったものを推測するのは困難であるかもしれませんが、その時代に書かれた小説や随筆などを読むと、やはり「未来はいまより良くなる」という感覚が流れていることに気づかされます。
 そして、歌も然り。今回選んだ中で、「有楽町で逢いましょう」「ウナ・セラ・ディ東京」などはメランコリックでブルージーな曲ですが、それでもどこかに明るさが感じられます。「下町の太陽」も短調ですが活力があります。貧窮な子供たちを描いた「ガード下の靴みがき」でさええらく元気で明るい曲調です。「こんにちは赤ちゃん」の無邪気な明るさときたら、少子化に悩む現在に突き刺さるかのようです。当時は少子化など思いもよらず、むしろ人口爆発が懸念されていました。
 正篇を作ったときにも感じましたが、「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉は、まさに至言だと思います。

 演奏会は大好評のうちに終演を迎えました。大停電で、お客のほうが集まるかどうか心配していましたが、ほとんど満席に近い様子でした。そういえば東日本大震災のとき、演奏会をはじめ多くのイベントが中止や延期になりましたが、たまに予定どおりに開催されたものがあると、いずこも大盛況であったと聞きます。

 ──こんな大変なときに演奏会を開くなど、不謹慎だ。

 などと普通は考えてしまうのでしょうが、テレビは震災報道一色になり、ネットもつながりづらくなり、映画館なども閉鎖されてしまい、娯楽が極端に少なくなった結果、そういうイベントに人が集まるという現象が見られたのです。
 まあ、実際には不謹慎だというよりも、まだ余震がどのくらいあるかわからない状況で、ホールの運営などがびびってしまったというのが実際のところだったとは思います。私もひとつ演奏会を延期しましたけれど、これも、もし特大の余震などが起こった際、会場側としてお客の安全に責任を持ちきれないと言われたためでした。
 考えてみれば家は停電でも、電車やバスが動いてさえいれば、演奏会を聴きに行くことに不足はないわけです。スタッフとして手伝いに来ていたChorus STの団員のひとりは、家が大網にあり、まさにやられてしまった地域で、実際にも停電がずっと続いているということでしたが、スタッフの仕事に穴をあけることなく、打ち上げまで参加して帰りました。真っ暗な家に帰るよりもそのほうが気が休まったのかもしれません。
 私も、打ち上げに出てから帰りました。二次会も誘われたのですが、さすがに家が遠すぎて、二次会まで出ていると帰りの足に支障が出そうだったので諦めました。帰りも京成を使いましたが、千葉中央駅に着いた途端に電車が出てしまって乗れず、そこで15分ばかり次の便を待たされたのと、京成津田沼で乗り換えたのが西馬込行きの快速電車で、青砥上野行きに乗り換えなければならなかったところ、接続するはずの普通電車の編成が短くて、乗車口に移動するあいだに発車してしまい、次に来る特急を8分くらい待たなければならなかったことなどで、往路より時間がかかってしまいました。
 帰宅すると、『続・TOKYO物語』の著者献本分がカワイから送られてきていました。先ほどさんざんサインして、本の様子はわかっていましたが、自分の所持品として眺めるとまた格別です。今回はできたばかりの東京タワーの写真を表紙にしました。地面には都電が走っています。そろそろ店頭にも並んでおりますので、ご興味のおありの向きは、ぜひ手にとってみてください。

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